Samsara 仏教の発祥地インド地方で使われるサンスクリット語。中国ではこれを[輪廻」と訳しました。この言葉は、すべての生きものが、生前の世界で行なったことに対して報いを受け、後述します「三界」、あるいは「六道」と呼ばれる迷いの世界に おいて、生死の流転を繰り返すことを意味します。ところで「悪業の報いで地獄に落ちる」と戒められる地獄というのは、六道の 最下層の世界です。六道には、「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」があります。わたしたちは果報によって人間界に生まれましたが、来世において、再び人間として生を受ける保障はありません。すべてが、この世の行いにかかっているというわけで す。仏教ははじめ、自分自身が救われることに熱心であった「小乗」と呼ばれるものでしたが、仏教が広まるにつれて、すべての 人の救済をめざす「大乗」に変わっていきました。輪廻の思想も、この大乗仏教によって確立されましたが、その起源は、生々流 転のとめどのない世界を、車輪の回転にたとえた古代インドの思想にあります。始めのタイトル部分「samsara」と書かれた背景 にあるのは、南インド地方で出土した「踊るシヴァ像」です。宇宙の創造神であるシヴァは、輪廻の車輪の中で踊りながら、わた したちの世界を動かしていると考えられています。
波羅蜜 サンスクリット語で「完成」を意味し、「彼岸に至る」と理解されることもあります。仏教国では春分の日と秋分の 日をはさんで前後の三日間を彼岸と呼び、さまざまな仏事や民俗行事が行われますが、本来は「悟りの境地」を意味する言葉です。 わたしたちは生活していく上でさまざまな悩みが生まれます。仏教ではそれを情欲による「煩悩」とよびますが、この煩悩が満ちている迷いの現世を「此岸」とし、煩悩から解き放たれいる世界を「彼岸」と呼びます。此岸から彼岸に渡るためには、「六波羅蜜」あるいは「六度」とよばれる大変苦しい修行を積まなければなりません。先述しました大乗仏教では、この六波羅蜜の実践が 重視されています。今でも、滝に打たれたり、断食してお経をあげ続けたり、という「苦行」をする方がいますが、これらの修行は彼岸に、より近づこうとして行なわれるものです。なお、この彼岸のことを「涅槃」ともいい、両岸に横たわって流れているのがあの「三途の川」と呼ばれます。
迦羅羅 サンスクリット語で「裂くもの」を意味します。「涅槃経」というお経では「迦羅羅」と書かれていますが、南イン ド地方では「カメレオン」を意味するようです。すこし専門的な話になりますが、「大智度論」という漢訳仏典があります。その 中に「迦羅求羅」という言葉が見られ、「其身微細ナルモ風ヲ得レバ轉タ大ナリ、 至能ク一切ヲ呑食ス、光明モ亦ノ如シ」と書か れています。「迦羅求羅」はインドではカメレオンと同じ爬虫類の仲間の「蜥蜴」を意味します。ですから、迦羅求羅なるものは 「ふだんはちっぽけな体のくせに、ひとたび風が吹くとばかでかい怪獣に変身する。食い意地がきたなく、何でも食べ、光さえ食 べてしまう」というわけです。もちろん、このような生きものをこの世の中で目にすることはできません。また「裂くもの」といっ ても、カメレオンも蜥蜴もともに卵から生まれるので、母体を食い破ることはありません。しかし、同じ爬虫類の「蝮」は、他の 蛇とは異なって、卵をつくらず、親蛇と同じ姿で体内から生まれてきます。ところで、生きものの世界では、子を生んで寿命が尽 きてしまう種がとても多く見られます。蜘蛛の中には、親の体液をすすって、親を殺し、その生命と引きかえに成長するものがい ます。また、昆虫に見られる例ですが、産卵の時期になると、他の種類の昆虫に姿を似せて近づき、麻酔液の毒針を打ち込んで、 相手の体内に子供を産みつけるものもいます。親や宿主の生き身を食べて成長するこうした悲しい種族と、お経や仏典にでてくる 「変身能力をもった貪欲な生きもの」のイメージが重なり合って、この本に登場する「迦羅羅」が生まれました。
「癩」とは、癩菌の感染による慢性伝染病で、ハンセン氏病を意味します。近年まで、病気に対する無知が原因で、 発病者はもちろん、その家族まで周囲の人々から差別され、迫害されてきました。伝染病の死亡率が高かった昔は、多くの皮膚病 を「癩」と呼び、恐れたものです。本書における迦羅羅の病は、特にハンセン氏病をさすのではなく、迦羅羅が、人々を恐怖に陥 れる醜悪な姿をしていたことを意味するのにとどまります。また、「光明皇后が癩病患者の治療のために、その膿を吸ったところ、 その患者は仏の姿になった」という話はよく知られています。
欲界 仏教的な世界観に「三界」という考え方があります。昔のことわざ「女、三界に家なし」に使われる言葉で「欲界・ 色界・無色界」から成り立つ全世界を意味します。色界と無色界は後述しますので、ここでは欲界だけを説明します。欲界は、三 界の始めの世界です。生まれ落ちるとまず欲界に入る、あるいは、生まれ落ちた所が欲界であると考えてよいでしょう。生きとし 生けるすべてのものを仏教では「衆生」とよびますが、この衆生が、さまざまな欲望にとらわれて迷い苦しむ世界が欲界です。欲 望の代表的なものを「三欲」とよび、それには、「食欲」や「眠欲」そして種族保存の本能ともいえる「淫欲」とがあります。食 欲と眠欲はさておき、淫欲とは、仏教では健全な愛の感情も含めて、すべての性欲をさします。欲界にも上、中、下があり、上は 「六欲天」、中は「人間界」、下は「八大地獄」と呼ばれています。
一丈六尺 迦羅羅は姿かたちが変化するので、大きさを定めても意味がないように思えます。しかし、本書では迦羅羅の基本的 な大きさを一丈六尺と定めました。怒り狂って暴れる場面などは別として、同じ生きものとして、それなりの大きさが必要です。 カメレオンや蜥蜴の大きさでは小さすぎますので、仏像の大きさとしました。ところで、仏教が広まるにつれて、仏の仮の姿とし て仏像が作られるようになりましたが、ふつうは3メートルほどのいわゆる「丈六仏」が作られます。「観無量寿経」によると、仏 が人間の前に現れる時、その姿はわたしたちの二倍あると書かれています。仏典などで人間は八尺とされていますので、仏はその 倍、一丈六尺となるわけです。この大きさは現代の丈尺単位で4メートル80センチほどにもなり、わたしたちが2メートル40センチ の巨人となってしまいます。しかし、古代の丈尺単位はやや短いので、それを考慮すると3メートルほどが仏の大きさとなります。 迦羅羅が苦海の旅を通して仏に近づいていくという意味から、その大きさを一丈六尺としています。
邪淫 仏教で禁止する行為に「五戒」があります。それは、生きものを殺さないという「殺生戒」、盗みをしないという 「偸盗戒」、正当な夫婦関係以外の性交為をしないという「邪淫戒」、嘘をつかないという「妄語戒」、むやみに酒を飲まないと いう「飲酒戒」から成り立ちます。邪淫はその一つで、愛欲による不当な行為をさし、近親相姦は特に禁じられています。夫婦で あっても「非支」(性器以外の身体の部分)、「非時」(時をわきまえず)、非処」(場所をえらばず)、「非度」(過度な性交)などは みな邪淫として戒められています。
阿闍 古代インドの王「阿闍世」の名に由来する作者仮想の国。この本を理解されるのに役立つと思われますので、「涅槃経」による阿闍世王の仏語をご紹介します。『阿闍世は父殺しの宿命を背負って生まれてきた。その父王は老いて子がなく、やっ とできた我が子の誕生を急ぐあまり、我が子に生まれ変わるといわれた仙人を殺してしまう。仙人は死に際して父王に復讐の呪い をかけた。仙人の転生として誕生する我が子を恐れた父王は、生まれたばかりの阿闍世を、塔より地面へ投げ棄てて殺害をはかっ た。その時、阿闍世は指を折るが、成長するに及んで指の傷から出生の秘密を知ってしまう。阿闍世は母后の諭しも聞かず、父を 毒殺した。その後、大罪を犯した後悔の焔で日々身を焼かれ続ける。しかし、仏の教えを聞いたため最後には救われた。』この仏 話の説いている「因業の罪と救済」が、本書の物語と重ね合わされています。
妖魔 仏典に書かれている「ばけもの」。仏教を信仰する人々に敵対するさまざまな悪魔を意味します。仏教の諸派に「密 教」がありますが、これは加持祈祷とよばれる儀式を通して、後述します「大日如来」の教えを感じとろうとする宗派です。ふつ う、高野山の金剛峯寺や京都の東寺で有名な真言宗をさします。この密教で尊敬され、崇拝される「明王」の戦相手がこの妖魔です。
明王 密教的な世界観から生まれた「如来」の化身。如来とは悟りを開いた仏たちのことを意味します。明王は別名「威怒王」とか「忿怒尊」ともいって、その名の通り口をグワッと開け、牙をむき出し、髪を逆立て、眼光鋭いグロテスクな容貌をして います。どんなに説法をしても情欲に流され、煩悩から脱け出せない人がいるもので、そんな人達を救うにはもう力づくでやるしかない、ということでしょう。煩悩から救われるのを邪魔するのが、先述しました妖魔です。よく知られた「不動明王」も、見るからに怖そうな形相をしていますが、これも、仏道にともなう苦難を乗り越えるための不動の精神を示しているからなのです。他 に「降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉」などの明王を含めて五大明王と呼ばれています。変わり種としては「孔雀明王」と呼ばれる明王もおります。
大日輪 サンスクリット語で「偉大な遍く照らすもの」の意味。古代インドの太陽神の信仰から生まれた存在として、真言宗 教では「摩詞毘盧遮那」と呼ばれる「大日如来」を意味します。ところで、表紙裏の曼荼羅は京都東寺の所蔵する「伝真言院曼荼 羅」と呼ばれるものです。曼荼羅とは、「仏教の教理にしたがって仏の座位を図像的に示したもの」ですが、要するにお相撲の番 付表と同じだと考えるとわかりやすいでしょう。わたしたちの社会のように、曼荼羅でも、男性力の「金剛界曼荼羅」と女性力の 「胎臓界曼荼羅」とがあって、うまく調和をなしています。この二つの曼荼羅の中央に描かれているのが大日如来で、「如来・菩 薩・明王・天」などの方々をすべて取り仕切る最高位の仏となっています。なお、「菩薩」は、悟りを得るために修行を重ね、し かも自分が救われることを犠牲にしてまでも、生あるすべてのものを救済することを目的としている仏です。また、「天」とは、 仏教の生まれる前の古代インドの神たちで、仏教が広まるにつれて、その守護神として活躍するようになりました。
観自在菩薩 別名「観世音菩薩」といい、観音様として親しまれています。補陀洛山という山の上から、苦海であえぐわたし たち衆生を眺め、救済を求める人の姿に応じ、さまざまな姿に身をかえて救いの手を差しのべてくれます。また「勢至菩薩」とと もに「阿弥陀如来」の脇侍として、わたしたちの、極楽往生を助けてくれる菩薩です。もともとはイラン系の女神でありますが、 女性は成仏し難しいので男性の姿をしているという「変成男子」の説に従って男性化されました。そのため鬚をはやしております が、女性の局部のシンボルである蓮の蕾を手にし、慈悲深い容貌・容姿から女性的印象が感じられる仏です。なお、勢至菩薩は衆生の往生に際して知恵の力を発揮する仏です。また、「阿弥陀如来」は「なむあみだぶつ」のことで、この名を口にすれば、死後極楽に行くことができるという「浄土教」の中心的な仏です。
色界 先述しました三界の第二の世界です。「色」とは、仏教では「物質」を意味する言葉であり、わたしたちが通常使う 意味とは異なります。かつての欲界における食欲や眠欲や淫欲などの欲望からは解放された、よりハイレベルな世界なのですが、 それでも、まだ形あるものに対する執着が残っています。ところで、本書には「槃若心経」が挿入されており、この色界の超越 (解脱)と、そのための実践(六波羅蜜)が説かれています。
無色界 欲界、色界に続く三界の最後の世界です。そこでは情欲や物質欲の束縛から解放されて、自由な心と精神作用だけが 存在します。輪廻の思想では、生きものは、前世・現世・来世に渡って、次々に生死を繰り返します。その中で、特に現世におい て、欲界、色界を流浪した末にやっとたどりついた「悟りの境地」、それが無色界なのです。
仏陀 サンスクリット語で「真理を悟ったもの」の意味。ふつうは、仏教を開いたゴータマ=シッダルタに対する尊称として 用いられ、「釈尊」と同じ意味で使われます。ただ、釈尊はシッダルタが「インドの釈迦族出身の尊者である」ことに由来して呼 ばれるのに対して、「仏陀」は「悟りを開いて彼岸に達した者」の意味で使われます。そのため、シッダルタ以外にも悟りを開く 者がいれば仏陀と呼んでよいわけです。
地蔵菩薩 「大地・国土・胎盤」というサンスクリット語から名づけられた生命の菩薩。釈尊が入滅されてから56億7千万年後 に出現される「弥勒仏」までの間、わたしたちを救済するために現れた仏です。民間信仰では、親に先立って死んだ子が、「冥土」 の「賽の河原」で鬼に責められる時、衣の奥に隠して鬼から救ってくれるのがこの菩薩です。そして、子どもの手を引き、彼岸へ と、そこに流れる三途の川を一緒に渡ってくれる「導きの仏」です。ところで、子どもにはやさしい地蔵菩薩ですが、地獄に落ち た死者の生前の行ないを裁くという、あの恐ろしい「閻魔大王」がこの菩薩の化身であることはあまり知られていません。迦羅羅 誕生を描いた始めの絵で、地蔵菩薩が恐ろしい姿で描かれているのは、閻魔大王を暗示したためです。子どもの前では、最後の絵 のようにやさしい姿に戻っています。なお、弥勒仏が活躍される56億7千万年にどのような意味があるのでしょうか。 自然科学の立場からいえば、予想される地球の消滅と不思議にも一致しています。今から50億年ほどしますと、現在の太陽は膨張 して「赤色巨星」と呼ばれる星になります。巨大化した太陽は地球の公転軌道にも達しますので、もはや人間はもちろんすべての 生きものも、生きる道は失われます。このわたしたち衆生の絶対絶命のピンチを救うため、現在、弥勒菩薩は修行に励んでいます。 そう考えた時、手を頬に当てて考え込んでいる中宮寺の「半跏思惟像」と呼ばれる弥勒菩薩のお姿が、広大な宇宙を背景に、私の瞼に浮かんでまいりました。
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