SAMSA〜RA迦羅羅の波羅蜜

サンスクリット語のサンサーラは六道輪廻といい、
六道とは 「天上、人間、畜生、修羅、餓鬼、地獄」という迷いの世界を、輪廻とはそれぞれの世界を廻って逃れることができない状態をいいます。
光織寺初代・本仏寺三代目管主 矢矧六道は六道輪廻をテーマとして「迦羅羅の波羅蜜」を描きました。

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『迦羅羅』は闇を食い破って生まれ出た。
姿、醜悪。容貌、怪異。
全身『癩』で被われていた。この世で始めて出会ったものは墓守の老人。
飢えて泣く迦羅羅の前に墓守は、老いさらばえたその身を捧げた。
墓守の脳漿をすすって迦羅羅は知恵を授かった。
迦羅羅には、幼き頃の記憶はない。

『欲界』を流浪しながら成長した。
出会った者を次々に食い殺す。
五臓六腑が求めるままの所業であった。

すでに迦羅羅の身の丈は一丈六尺。
隆起した瘤のごとき筋肉と、結節だらけの手足に加え、全身糜 爛の表皮を曝し、紅日のごとき眼光で、迦羅羅の姿は魔神で あった。
だが、呪われた体躯にかかわらず、その心は純然無垢。
逆にそれが迦羅羅の運命を悲しいものにしたとも言える。

ある時、邪淫に耽ける親子に出会った。
男親を食い殺して『怒』を、女親を食い殺して『喜』を、娘を食い殺して『楽』を、最後に息子を食い殺して『哀』の感情を得た。
以来、迦羅羅は人肉を求めようとはしなかった。

迦羅羅は『欲界』の地を去り、『阿闍』に流れてきた。
そこは悪霊に取り憑かれた国。
迦羅羅は街に入った。

その姿を見た民は、一方で悪霊列座の『妖魔』と恐れ、他方で 仏陀の使徒の『明王』であると考えた。
だが、醜悪怪異な迦羅羅には、野犬とても近づけぬ。

迦羅羅に初めて石を投じたのは子供達である。
抗わぬ迦羅羅を見て、大人達も石を投じてきた。
雨と降る石つぶての痛みの中で、迦羅羅は己に対する民衆の 『嫌悪』の情を見てとった。
迦羅羅は街を逃れ、その身を隠した。

暗い地の底に潜み、民の集う街を見続けている。
『憧憬』と同じに『羨望』が生まれた。
悲哀の中で、己の『孤独』を迦羅羅は知った。

迦羅羅が阿闍に現れた頃、悪霊は王家に対して貢ぎを求めてきた。
人身御供とされたのは、今は亡き国王の孫娘。その名は『聖妃』。
岩山の犠の祭壇に繋れながら、聖妃は一心不乱で仏に祈っている。

雲が流れた。
そこには魔王のごとき迦羅羅がいた。

迦羅羅は、聖妃を見た刹那、心の奥に『愛』が生まれていた。
己の醜さも忘れて聖妃に近づいた。
迦羅羅の手が、恐怖におののく聖妃に伸びる。
そして白い乳房に触れた時、聖妃は気を失った。
その時である。暗黒を切り裂く咆吼とともに悪霊が現れた。

死臭が漂っている。
迦羅羅は悪霊に『敵意』を抱いた。
死闘が繰り広げられた。
悪霊は『恐怖』の感情を投げかけたが、それを知らない迦羅羅 にとって無駄に思えた。
だが、肉裂き、骨砕ける闘いの中で、迦羅羅の心に『恐怖』が生まれた。
咽喉を悪霊の牙で裂かれかけた時、『諦念』が泌み出た。

刹那である。
大日輪の光明が聖妃の顔を照らした。
それを見た迦羅羅に『意志』の胆力と『勇気』の心が湧き起こった。
迦羅羅はついに悪霊を殺すことが出来た。
息絶える中で悪霊は、種族の宿命を明かしたが、迦羅羅にはそ れは理解出来ぬ。
ただ、不思議に『哀弔』の涙が止まらなかった。

迦羅羅に異変が起きたはその直後である。
邪悪な体躯を覆う皮膚が、膿汁を噴いて溶けだした。
聖妃は意識を取り戻すと、そこに美しい勇者を見出した。
大地に散らばるは悪霊の屍。

悪霊滅亡の知らせは国中に伝えられた。
民衆は歓喜した。
阿闍の掟によって迦羅羅は王に迎えられることになった。
聖妃の心も迦羅羅に向かった。

だが、迦羅羅の『幸福』は続かなかった。

即位式の前夜である。
迦羅羅の本性をかいま見た聖妃の瞳は凍りついた。
迦羅羅の美しく変躯した体も、眠りの中では元の醜い姿に戻っ ていたのである。
聖妃はその姿を目撃した。

翌日、宴の席で、迦羅羅に毒が盛られた。

『悪霊』迦羅羅を殺害するため、謀略がなされていた。
もがき苦しむ迦羅羅に、石を握って人々が殺到した。
断末魔の叫びをあげて迦羅羅の動きが止まった。
薄れゆく意識のなかで、迦羅羅は『憎悪』の感情を知った。

あたりは血の海。
そこに横たわるは、打ち砕かれた迦羅羅の肉塊。
迦羅羅は国境に運ばれ、谷に投げ込まれた。

迦羅羅が復活したのはその四日後である。
以前に増して醜悪怪異。
表皮をうめる腫瘍から、邪悪を促す膿汁がしたたり落ちる。
眼光すでに『怨念』の炎。
迦羅羅は死臭を吐いて街に戻った。

殺戮の嵐が五日間、国中に吹き荒れた。
嵐が止んだ時、阿闍には迦羅羅と聖妃の二人が残っただけである。

聖妃の瞼に、母や兄弟達の虐殺される光景が焼き付いた。
迦羅羅には『呵責』の念が沸き起こった。
己の因業を呪った。 『後悔』と裏腹に、聖妃に対する愛情はますます大きくなっていった。

聖妃は我が身をかけて、迦羅羅の破滅を仏に祈った。
祈祷に入って七日目の夜、『観自在菩薩』が現われた。
子供を抱いている。
その啓示を看取した聖妃に戦慄が走った。

-悪霊の子を孕む-

だが、非力な聖妃になにができよう。
怨念に身を焼き、復讐に命をかけた聖妃は、菩薩の教えに従っ た。

聖妃は迦羅羅と交尾した。

『憎悪』と『盲愛』の肉交があった夜から九か月がたった。
すでに二人は阿闍の地を離れていた。
阿闍の国が『色界』であったことを迦羅羅は無論知る由もない。

国を出てから聖妃が病に冒された。
大きく脹れた白い腹に腫瘤が現れている。
聖妃が迦羅羅を憎めば憎む程、浮腫が広がり、膿汁が湧いて出 た。

聖妃は毎朝、己の膿を迦羅羅に吸わせ、体を洗わせた。
すると腫瘍の口はわずかに癒えたが、聖妃の憎しみの心は、晩には再び己の体を腐らせていった。
迦羅羅は聖妃の治癒と、我が子の誕生を『希望』に生きていた。

聖妃の病は重くなるばかりである。
すでにその双眸は光を失っていた。

ある日、迦羅羅は聖妃の心の奥に燃える『憎悪』の炎に気が付いた。
以来、迦羅羅は何も食しなくなった。

かつて明王と身間違うばかりであった肉体もすでにない。
迦羅羅は己の老躯に苦行を課し、聖妃の魂の救済を只ら願った。
ある日、聖水を捜しに出た迦羅羅は、泉を覗いて愕然となった。

-あの悪霊は、父であった-

迦羅羅は、そこで初めて、呪われた一族の忌まわしい宿命を自覚した。

-母体に巣食い、その生き身を餌床とし、日満ちて、腹を食い破り、生まれ出る種族-

迦羅羅は雄だけで相伝される因業の寄生種族だった。
死ぬ間際に見た悪霊、父の目から溢れ出る血の涙を迦羅羅は想 起した。
さすれば、迦羅羅から放たれた生命の体液は、邪悪な子虫に姿を変えて、聖妃の中で蠢いている筈だ。

種族の淫血を伝える本能が、父を殺し、阿闍の国を滅ぼした。
そして今また愛する聖妃の命を奪おうとしている。
迦羅羅は苦悩した。
再び、泉に映る己が姿を見た。

-滅ばねばならぬ-

聖妃は夢で『仏陀』に会った。
仏は微笑み、痛み苦しむ身体をやさしくさすってくれる。
痛みが消えていく。
仏の慈悲にすがろうと、その手に触れた時、聖妃は眠りから覚 めた。

そこにいたのは迦羅羅であった。
迦羅羅の目から熱い涙が溢れ出る。
その涙が聖妃の頬にぽつりと落ちた。
刹那、聖妃の目から鱗が落ちた。
聖妃はすでに迦羅羅を憎んでいないことに気が付いた。

迦羅羅は呪われた宿命を明かした。
体内に巣食う己が子を殺すしか聖妃を救う道はない。
迦羅羅はそう思った。
聖妃は迦羅羅に従った。

迦羅羅の手が入ってくる。
激痛が走った。
薄れてゆく意識の中で、聖妃はどんなに深く迦羅羅を愛していたかを悟った。
迦羅羅の手が胎児の頭蓋に触れた時、聖妃ははっと意識を取 り戻した。
我が子を守る母性があった。

衰弱し切った最後の精根を振り絞り、聖妃は抗った。
かつて、復讐の炎に焼かれ、迦羅羅に身をまかせた聖妃であったが、今は違う。
己が身に換えても迦羅羅の子を無事生むことが願いであった。

だが、必死の哀願も空しく、月に満たない胎児が引き出された。
その小さな体に、やはり『癩』による醜い浮腫があった。

-宿命である-

聖妃はその時、すでに息を引き取っていた。

愛する者を失った断腸の悲しみと、因果な宿命に対する怒りの感情は足下で蠢く醜悪な嬰児に向けられた。
岩を手にした。頭蓋を砕こうと振り下ろした刹那である。
嬰児は迦羅羅に微笑んだ。
不思議な感情が迦羅羅の動きをとっさに止めた。
迦羅羅は立ちすくんだ。

どの位の時がたったろうか。
つかんだ岩は地に落ちた。

その時、迦羅羅に『無色界』が訪れた。

迦羅羅は我が子を優しく抱き上げた。
そして聖妃の遺骸に並んで横たわった。
己の腹に爪を立て、一気に引き裂くと、ゆっくりと我が子を その身に納めた。
そして聖妃の手を取り、静かに目を閉じた。

迦羅羅が入滅してから、大地には悠久の時が流れた。
朽ちかけた屍が、わずかに動いている。
側には墓守に姿を変えた『地蔵菩薩』が立っていた。

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『SAMSA~RA 迦羅羅の波羅蜜』
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