魂の救済

バッハが描写する「永遠なる生命と死への憧れ」は、教会というよりむしろ日常の現実的な問題から起こったものである。

バッハはニュートンが万有引力を発見した1685年に8人兄弟の末っ子としてドイツのアイゼナッハに生まれた。彼の家系は音楽一族であり、彼が50歳になる頃には家系から合計53人もの音楽家を輩出している。

父のヨハン・アンプロージウスはヴァイオリンとトランペット奏者、楽隊指揮者兼作曲家であった。

バッハに音楽の基礎を教えたのは父親だが、9歳の頃にバッハは両親を相次いで亡くしたため、14歳年上のオルガン奏者の長兄ヨハン・クリストフに引き取られた。

両親の死は多感な少年の心に暗い影を落としただろう。バッハは音楽に没頭し、兄の楽譜をこっそり持ち出しは月明かりで写譜して勉強した。合唱隊で歌った報酬で家計を助けてもいた。

15歳で遠い町のリューネブルクに移り、教育を受けた。その町は全ヨーロッパから集まった文化的刺激が交錯するハンブルグの近くで、バッハはよくハンブルグに音楽を聴きに行き、様々な様式を学び、宗教曲や演劇にも興味を抱いた。

18歳でヴァイマルのヴァイオリン奏者として初めての職を手にする。のちに、オルガン奏者の職も獲得。

22歳で又従姉のマリーア・バルバラと結婚。7人の子供に恵まれた。そのなかで長男のヴィルヘルム・フリーデマンと次男のカール・フィーリプ・エマーヌエルは優秀な音楽家に成長した。この頃、有名な「トッカータとフーガニ短調」を作曲している。

32歳でケーテン公レオポルトのもとで宮廷楽師になった。

35歳の時、妻のマリーアが急死した。

翌年、21歳の若い宮廷歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚。13人の子供に恵まれた。しかし、合計20人位の子供のうちで成人まで成長したのは10人のみで、バッハの存命中に11人の子供が死んでいる。

この頃、「平均率クラヴィーア(ピアノの前身)曲集」や「アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集」を作曲している。

38歳でケーテンを去り、ライプツィヒへ移り住み、聖トーマス教会のカントル(教会付属音楽学校の教師兼、町の音楽監督)に就任する。その後、生涯をこの地で送ることになる。この頃、「インヴェンション」を完成した。

42歳で4月11日聖金曜日「マタイ受難曲」初演。

62歳でポツダムに住む次男のカールを訪ねた際、フリードリヒ2世に謁見を許される。

バッハの名声を知っていたフリードリヒ2世は、自らピアノで1つのテーマを弾き、それを使ってフーガを作曲するようにバッハに求めた。バッハは即興で6声のフーガを演奏し、聴衆を驚嘆させている。

バッハにとってもこの「王のテーマ」が素晴らしかったので、これを題材として作曲し、王(フリードリヒ2世)に捧げようと決心する。「音楽の捧げ物」という題がつけられたこの作品は、芸術的感性と学問的理論が一体となった傑作として名高い。

64歳、目の病気のため療養生活に入る。手術を2度受けるが改善されず、次第に目が見えなくなる。作曲は息子達に口述して続けた。

65歳で死去。「フーガの技法」が未完のまま残された。

サンスカラーの法理
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