魂の救済

丸山博文の「魂の救済」

丸山博文は1942年、九州の小倉で5人兄弟の末っ子として生まれた。父親はアルコール依存症で定職につかなかった。そのため一家は貧困を極めた。博文は満足に小学校にも通えず、大工の見習いや農家の手伝い等して働いたので、漢字の読み書きができなかった。 一家を支えてきた母親は博文が3歳の時、死者、行方不明者3756人を出した枕崎台風で、壊れた家の下敷きになって死んでいる。母の代わりに兄弟姉妹の面倒を見ていた長女が病気で死ぬと父親は全く働かなくなった。以後、一家は離散し、博文は当時盛んであったダム工事の現場を転々とした。

31歳で同じ工事現場の飯盛りをしていた知的障害のある女性と結婚して男の子が生まれた。その時が博文の人生で最も楽しい頃であったろう。しかし、幸せは続かない。妻は酒が大好きで飯場の男たちの求めに応じて誰彼となく関係を持った。そして奇行が目立つようになり、精神分裂病と診断され入院した。その年、入院しているはずの妻を見かけ、その後を追いかけて他人の家に上がり込み逮捕された。言動がおかしいため診察を受けた。その結果、博文もまた精神分裂症と診断され、妻と同じ精神病院に入院させられた。

退院後、博文は生まれて間もない子供を施設に預け、職を求めて全国を転々とした。作業員宿舎や簡易宿泊所に寝泊まりし、わずかな収入の中から離婚した妻の入院費や施設にいる子供に毎月数万円の金を送り続けた。

1980年3月頃から宿泊費を節約するため、新宿西口周辺の路上で寝るようになった。 お盆を迎えても博文には帰る故郷がない。8月15日にガソリンを容器ごと買い求めた。犯行当日の8月19日、気晴らしに出かけた競艇で泣けなしの1万円をスッテしまった。また、着替えや私物の入ったバックをコインロッカーに預けていたが、1日過ぎていたために取り出せなくなっていた。当時、赤ん坊をコインロッカーに捨てる事件が多かったため、預ける期間は当日までになっていた。 博文はムシャクシャしながら新宿地下街の階段に座り込んでコップ酒をあおっていた

ところ、通行人から「邪魔だ。あっちへ行け!」と追い払われてしまう。 その心無い一言によって身体の中の何かが壊れた。

博文はそれまで暗い地の底に身を潜め、じっと世間を見てきた。 幸せな家庭を持つ人々に対する憧れは、ねたみに変わった。家路を急ぐ幸せそうな人々を乗せたバスの中に「あの男もいる」と思った。酔いも手伝っていたのだろう。博文は乗客30人の乗ったそのバスに火のついた新聞紙を投げ込み、用意したガソリンをぶちまけた。一瞬にしてバスは火だるまとなった。

座ったまま死んだ方、全身火に覆われて路上を転げまわった方、皆、悲惨な死に様であった。その時、博文は炎上するバスを見ていた。バスには自殺をしようと考え、逃げるのを一瞬ためらって全身90%の火傷を負った杉浦美津子さんがいた。杉浦さんの兄は報道カメラマンで、たまたま現場に居合わせた。兄は夢中でシャッターを押し続け、その写真が翌日の新聞に使われた。しかし、妹が燃え盛るバスの中にいたことを後で知り、報道カメラマンの職をやめた。この事件で6人が死亡、22人が重軽傷を負った。

博文は路上にうずくまっているのを発見され、通行人に取り押さえられた。逮捕時、所持金は2700円ほどしかなかったが、子供に送金するために貯めていた預金通帳を持っており、その中には15万円ほどの記載があった。

逮捕後、博文はこう供述している。 「バスに火をつけてやろうと思って、ガソリンスタンドにガソリンを買いに行きました」 「世間の人が幸福に見えた。人がアッと驚くことをしてやろうと火をつけた」 「酒を飲むと、他人が自分を変な目で見ているような感じが一層強くなり、これが頭にきて、誰かれとなく人通りの中で怒鳴り散らした」

丸山は当初「バスの運転手になめられた」と怒鳴っていたが、丸山とバスの運転手の間にトラブルはなかった。

しかし、事件の数日前にバス停前のベンチで仰向けに寝ていた丸山らしい男が、手足をばたつかせたり、バスの排気ガスを浴びると「このヤロー、燃やしちゃうぞ」と言っているのが目撃されている。

炎上するバスと被害者

裁判で博文は死刑を望んだが、犯行当時は心神衰弱にあったとされ、無期懲役になった。 その判決を聞いた直後、博文は「罪にならんとですか?」と聞き直した。そして、傍聴席にいる遺族たちに「ごめんなさい」と言って土下座した。死刑判決が出なかったのは、奇跡的に一命を取り留めた杉浦美津子さんが自ら証言台に立ち「寛大な刑」を求めたことも一因と言われている。

服役中の博文に対して手紙を送った杉浦さんへ返事を書いている。 「おてがみありがとうございました。55年8月19日はほんとにすまないことおしました いまじぶんはこかいしています バスのおきゃくさんがのっているとはおもえなかった めがはっきりみえなくてほんとにすまないことをしました 大ぜいがなくなりおわびのしよがございません ほんとにすまない 丸山博文(原文のまま)」

1997年、博文は服役していた刑務所で「メガネを忘れた」と言って作業場を離れた。戻ってこないので職員が探したところ、ビニールひもで首を吊って自殺しているのが発見された。享年55歳であった。

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